昭和57年10月21日 朝の御理解 二代



 御理解51節
 「天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし、身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも、実意もって願え。」

 ここ2,3日ではありますけど、親先生のお手代わりをさせて頂きながら、終日神様の御用さして頂きながら思います事は、私の生活の中の大半を占めておるのは、結局信者様の立ち行きの事を願って居ると言う事になんですね。よく親先生が以前テレビを見ながら、時々テレビの何がただテレビを見よるけども、何がありょるか全然分らんと言う様な事を仰りょり寄ったですけど。その意味がようやく分かりました。先ず新聞を見よっても全然心にはもう新聞にはないんですね。
 ただあの人のあの問題はどうなりょるだろうかと、思うたらもうその事がになって祈らずにはおれない訳ですが。ただテレビを見よっても、いわゆる心はそこにあらずで、はぁ本当にあの人のあの痛みが取れたらという、もうそこに祈らずにはおれない、もう本当に取次者と言うものはこれ程しに、あのう祷りじに空けて祈りに暮れるのだろうかと思う位に、祈り続けておるっ時分に気づく時にですね。始めてあのうこれ程しの祷りを、私共が終日頂ておったと言う事を改めて思います。
 お互い本当にこれ程の願いを親先生の願いを、また神様の願いを受けての事でありますから、本当にあのうおかげを頂いて貰わなければ勿体無いという気がするんです。ここにあります様に、天地の間に住む人間は神の氏子と、本当にここにこうやってお参りなって合楽にご縁にある方は、本当にもう合楽の子供ちゅうか合楽の私の、やっぱりあのう氏子と言う実感がするんですね。
 昨日ここの午前中御結界につかして頂いとりましたら、最近頻繁にあるんですですけども、もう御心眼とも現実ともこうつかん、どちらか分からん様なはっきりしたお知らせを頂くんですけども、昨日もあのう御結界つい通りましたら、あのう安武先生が私からもらったのか、ささげ頂いておるのかこうこんな何かやものを、こうやってしてる状態を頂くんですね、だから安武先生目の高さより上に持って行きなさいって、こう私がこう声をかけておるところですけれども。
 目の上の高さよりうえにとこういう自分で声を出しながら自分でびっくりして、あのうおる様な御心眼があったんですけれども、ただそれそれを思います時に私は、ただ今日の御理解を頂いておたがいそれだけの、熱い願いと言うか思い祈りを頂いておるのに、それこそおかげは平等に授けるが受け物が悪ければおかげが漏るぞと言う様に、おかげを漏らして居ったんでは勿体無い。
 そこに私達がいよいよ完璧なまでに神様の願い、親先生の祷りを頂くためにもういよいよあのう、敬うて成り行きを頂くということ以外にないと言う気がするわけです。目の上にと言うのは例えば見下したりと、か軽視したりと言う事じゃなくて、反対にそれこそあのう奉って頂くような事、例えば人でも物でも成り行きでも、それほどの大切さで、成り行きを尊ぶと言う事ではなかろうかと思うんです。
 昨日も研修の時間に梶原先生が発表する中で、奥さんが夕べ頂いとるのに1982年の10月22日に布教と言うお言葉でお知らせを頂いて、ですからこりゃ思います時の、例えば合楽に掛ける神様の計画と言うものは、もう本当に着々とこうやって進んでおる。計画以上の事がこうやって着々と進められておるのにお互い、お互いの所では一体どうなっておるのか、神様が例えばなら修行生の方を取ってみると、なら何月何日には不況だよと神様の計画があるのに、そこのそれこそ神様の計画と私の信心が合うてない。
 お互いにこれだけ神様があのう、おかげは授けたいと思うとるのに、半分しかおかげを貰ってない、3分の1しかおかげを貰ってないと、言う事になっていないんでなかろうか。そこで結局親先生の場合なら神様の成り行きを、それこそ12分に敬うて頂いておるのに、お互いの場合その神様の思いとか成り行きと言うもの半分しか頂いてない、3分の1しか頂いてないって言う事になるんじゃなかろうか。私は本当にまぁここ何日間ですけでも、思い続け祈り続ける事はもう皆さんの事。
 こりゃ倍も3倍もの思いで間違いなく親先生はあなた達の事、私達の事を祈って下さるだろうと、その思いを12分に受けるためにいよいよこれは神様の成り行きと言うものを敬いてっというか、本当に目の上の高さ以上に一つあのう尊んで頂いて貰いたい。そして親先生がいつも仰るように、本当にお互いの家庭の中に真善美輝く5つの願いがですね、成就して行ってもらいたいともう切に思います。
   どうぞ。